5/11(日)オンライン講演会「古典演劇のすゝめ~歌舞伎、文楽、能・狂言の世界」開催報告

5月11日に「古典演劇のすゝめ~歌舞伎、文楽、能・狂言の世界」と題するオンライン講演会が開催され、34名が参加しました。講師は、古典演劇コンシェルジェとして、執筆やイベント企画をする93年卒の大福ヒロさん。以下にその概要をお伝えします。

 古典演劇は、江戸時代に始まった歌舞伎、文楽、そして室町時代に始まった能、狂言の4つ。大昔の芝居を現在もみることができるのは、世界的にもめずらしいという。
 芝居の面白さは人間の描かれ方にある。わかる、という共感。逆に、私ならこっちを選ぶと揺さぶられることも。観客がいっせいに息をのむとか、劇場がじわじわと波打つような瞬間にたちあえることも醍醐味。
 現代の常識からはぴんとこないと思うこともあるだろう。たとえば「忠義」。主人のために命を捨てるのはまだしも、自分の子供を主人の子供の身代わりに殺すようなことは、理解できないと感じる人も多いのでは。
 歌舞伎や文楽の「寺子屋」は、大事な子供の身代わりに、寺子屋で新しく入った子供の首が切られる話。首が本物かどうかを見張りにきた松王丸は、実はその子の親だった。首を切れと命じた側に仕えながら、敵対する側に忠義を感じており、我が子を差し出していた。松王丸は、子供の死を悼み、ついで自殺した弟の桜丸は忠義を果たせずさぞ悔しかろうと泣く。そこで観客も大泣きする。なぜ、桜丸が出てくるのか唐突だと感じていた。
 ある時、観客それぞれの心の中にいる亡くなった人を思い出して泣いているのだろうと理解した。
 忠義は単に枠組みとして使われ、描いているのは必ずしも忠義ではない。昔は乳幼児の死亡率が高く、言いようのない悲しみに遭遇した人も多い。子供が殺される話で、子供を亡くした思い出を反芻し、悲しみを解放する装置として機能した面があるのではないか。
 観客はいつも現実の役者と演目の芝居を同時に見ている。自分の物語として受け止める余白がたくさんある。

 お話はどんどん盛り上がり、質問にも笑顔で熱心に応えていただきました。古典演劇の予備知識ゼロの筆者は、解像度が低い理解しかできなかったのですが、古典演劇に対する、あふれる「愛」を感じました。こういうコンシュルジェに導かれたら、観劇が10倍楽しくなりそうです。